ハッピ一エンドで出来ている?

ようやく「劇場版そらのおとしもの 時計じかけの哀女神(エンジェロイド)」を観られたので、その感想でも。
結論から言えば、ちょっと期待外れだったかなと。1期・2期とずっとアニメ版を追って来ましたが、この劇場版が1番出来が悪く感じられました。私はそらおとと言う作品が大好きで、事前に原作を読んでもいたので、勝手に自分の中で期待を高め過ぎただけかもしれませんけれども。


以下、良かった点・悪かった点などを個別的に。

  • 良かった点
    • 意表を突いたOP

てっきりOPは「SECOND」かと思いきや、宮内タカユキさんの「超☆愛(マジラブ)合体!!エンジェロボ!!」で始まって、これは油断していたなと。原作では日和編終了後の「#42 合体!!」に登場する歌なので、劇場版で聴けてお得でした。そうか、今にして思えば、「SECOND」は「劇場版主題歌」であって、「劇場版オープニングテーマ」とは一言も言われていなかったですね。

    • 日和が可愛い

実のところ、原作を読んだ時には日和にそれ程心惹かれることもなかったのですけれども、動いている日和を観て、考えを改めました。デビュー以来サバサバした元気な女の子の役が多い日笠陽子さんにとって、女の子女の子した正統派ヒロインの日和は珍しい役だと思いますが、日和の良い娘っぷりを見事に演じ切っていました。挿入歌の「クレヨン」も良し。

    • TVシリーズの裏話

総集編に日和視点の新作映像が加わったことで、ニンフリンゴ飴を巡るエピソードの裏に日和と会長の働きがあったこととか、アストレアがウサギ小屋で餌を食べていた背景とか、そう言ったことが分かったのは、TVシリーズ視聴者として面白かったです。

    • 原作の再構成が上手い

後述するように、私は今回の脚本については批判的ですが、原作の時系列や場面を入れ替えての再構成だけは、TVシリーズから引き続き上手かったです。例えば、「智樹の社窓から」を削ったために浮いてしまった、智樹ボコボコ日和が助ける→そはら達がそれを見て気持ちが沈むと言うシーンを寿司エピソードにくっ付ける、日和新大陸発見部に入った理由を語るシーンを夜道に変更するなど。

    • 戦闘の連繋プレー

そらおと原作は概して戦闘シーンがあっさりしているのですが、TVシリーズ同様、劇場版でも戦闘シーンは大幅に強化されています。エンジェロイド同士の連繋プレーなんかは、劇場の大スクリーンでは見応えがありました。

    • アストレアが可愛い

シリアスシーンを除くと、アストレアは登場シーンの殆どでひたすら何かをむしゃむしゃと食べ続けています。その姿を見ていると癒されますね。まあ、これは私がアストレア派と言うのもあるかもしれませんが。

  • 悪かった点
    • 総集編が冗長

劇場版は大体、前半45分が総集編で、後半55分が原作「#34 入部!!」〜「#40 退部!!」相当の内容となっています。やはり半分近くが総集編と言うのは、長いです。総集編は日和が智樹達のドタバタを傍から眺めていると言う形を採っていて、良く言えば、日和新大陸発見部に入ろうとするまでの心の動きを丁寧に追ったとも言えますが、日和視点と言うことは、シナプス絡みのシリアスシーンはカットされざるを得ないわけで、長い割には物足りなさもありました。
原作の日和編の尺が短いから総集編を長くするしかないのだったら、まだ話は分かるのですが、実際にはそんなことはなくて、むしろ日和編の中にカットされてしまったものがたくさんあります。ざっと挙げると、「#35 清純!!」のバレンタインエピソード、「#36 疑惑!!」の「智樹の社窓から」、「#37 日和!!」の大部分(ラスト以外)、「#39 葛藤!!」の「トモキの喜ぶこと」の大部分(添い寝以外)、「#40 退部!!」の戦闘終了後は、劇場版では観られませんでした。劇場版の制作期間は短かったようですから、これで精一杯だったのかもしれませんが、残念です。

    • 日和の死のインパクトが弱い

原作では地上の日和は智樹と一緒にいる時に交通事故死を遂げますが、劇場版では智樹に会いに行こうとする途中で事故に遭うため、智樹は日和の死を目撃しません。自分のことを好きと言ってくれた女の子が目の前で死んでしまうと言う衝撃的な出来事。にも関わらず、智樹が日和のことを忘れてしまうと言う、シナプスのシステムの恐ろしさ(実際は忘れていませんが)。そう言った部分が劇場版では抜け落ちています。

    • 智樹が記憶を失ったフリをしない

シナプスのシステムによって智樹が日和の記憶を失ったように見えたのは実は演技で、泣き出したニンフを気遣ってのことだった。これが原作の日和編最大のどんでん返しだったのに、劇場版の智樹はそんなことはしません。原作を読んだ時には、記憶を一旦失う→愛の力で思い出すと言う展開の作品が多い中、これはヤラれた!と思ったのに、そのまま使わないなんて勿体無いですね。智樹が一旦記憶を失ったかのように見えたからこそ、突然戦闘現場に現れたことに対して、空のマスターが狼狽するんじゃないですか。
サプライズ的な面を抜きにしても、智樹の演技はニンフへの優しさの現れですから、そう言った点からも、ここは改変すべきではなかったと思います。

    • クライマックスで全員集合しない

原作では智樹は守形先輩とそはらも連れて戦闘現場に駆け付けますが、劇場版では守形先輩しか連れて来ません。そはらは戦闘終了後も出番がありますが、会長は陰も形もありません。そはらは勿論、アニメ版の設定からすれば会長も、1期最終話のように、クライマックスには立ち会って欲しかったです。

    • Kairos破壊後、Ζが棒立ち

アニメ版のΖは大きな時計の歯車のような装置・Kairos(カイロス)を背負っていて、その力で時間を操作して戦います。その設定変更の是非はともかくとして、アニメ版ΖはKairosをアストレアに破壊された後は、ほぼ棒立ちです。一応Demeter(デメテル)らしき杖を持ってはいたのですが、何もせず。おかげで緊迫感が全然ありませんでした。

    • 終わり方がすっきりしない

原作ではニンフがΖのインプリンティングを破壊して、日和は空から解放されるのですが、劇場版では意識を取り戻した後、イカロスをハッキングしてaegis(イージス)を解除させることによって自分との心中を止めさせ、1人空へと高く飛んで自爆してしまいます。原作通りではニンフが1人だけ活躍し過ぎることになるので、何らかの変更はあるとは思っていましたが、これではあまりにも後味が悪くて、そらおとらしくないです。
一応後日譚として、写真に日和の姿が復活する、空から羽が落ちて来て智樹が振り返って笑顔になると言う描写があるので、日和の復活は強く示唆されていますが、それはそれで何故日和が助かったのか良く分からなくてもやもやします。日和が消える瞬間にダイダロスが介入して日和本体だけを回収したとか、設定としては色々考えられるのですが、いずれにせよ、智樹達の力だけで「救けるから」との約束を守れなかったことに変わりません。
それに原作の日和編が「入部」に始まって「退部」に終わったように、きっちり日和が失恋するところまで描いてこその日和編だと思うんですよね。劇場版の終わり方では、まるで日和ENDです。

  • その他疑問
    • エンジェロイドが夢を見ない理由

OP直後のダイダロスの語りで、イカロス達エンジェロイドが夢を見ない理由が話されています。が、その口振りからは、夢を見させることも出来たけれども、イカロス達が幸せになることを願って、敢えて夢を見ない設定にしたかのようです。エンジェロイドにとって夢は禁忌、つまり見させようと思っても無理と言うことではなかったんですかね。

    • Ζの能力変更の意味

劇場版ではΖの能力が、気象操作のDemeter(デメテル)から時間操作のKairos(カイロス)に変更されています。別にΖの能力が気象操作でなければならない必然性はないのですが、かと言ってわざわざ時間操作能力に変えた理由も良く分かりません。好きだと言っていた空見町を日和が自らの手で壊す様を描きたかったのだとしても、それはDemeterでも出来るわけですし、自爆を描きたかったのならば能力はDemeterのままで自爆装置を取り付ければ良いだけですし。

    • 日和の記憶

劇場版オリジナル設定として、日和と智樹は幼い頃、空見町内の見晴らしの良い場所で出逢ったことになっています。その設定自体に文句を付ける気はないのですが、この出逢いについて、日和がいつ思い出したのかはっきりしません。そもそも日和自身が、智樹のことが気になり始めたのは高校1年の合同調理実習の時だと語っています(幼い頃の出逢いを覚えていない様子)。さらに、日和があの場所へ智樹を連れて行った時、実は智樹もその場所を知っていたと分かった時にも、日和が幼少の頃の記憶を取り戻したような描写は一切ありません(智樹は思い出し掛けていますが)。それなのに自爆直前、智樹の呼び声に意識を取り戻した時にはいつの間にかその記憶が蘇っています。


とまあ、否定的意見多めで連々と書いて来ましたが、少し頭を冷やして、今月末、もう1度観に行こうとは思っています。それでもこの評価が動かなかったら、それはそれまで。